昭和40年06月04日 朝の御理解
どこをどう思うて見ましても有難い。どういう中にありましても、どういう場合でも思えば思うほど有り難いと。私はあの信心さして頂く者は、そう云う様なその有難いというものが追求されて行かなきゃいけないのだと思う。どういう場合でもどういう中にあっても、思えば思う程有難い。思えば思う程神様のお働きの中にある私達。そう云う様なそのう、事が例えば今朝の私の実感なのですけれども、御神前に出らせて頂いてから別にどれとこうどれを取り上げてと云う事もないけれどもとにかく有難いのですね。
何でそれが有難いのかと言うと、まあ、ギリギリさんじ詰めて見るとですね。本当に私ぐらいの者の信心、私ぐらいな者の所にです、こうして真実助かりの道を求めて、難儀から開放されて行かれる皆さんの助かっておいでられる、その状態とでも言うか、まあいうならば、信心の稽古の所にです、私ぐらいな者の所にこの皆さんが、集まってお見えられると云う事だけでも有り難い。
まあそのう有り難いと言う対象は他に沢山あります様です。けどその結局は私の様な者にと言う所から、生れて来る様ですね。これは例えばあの「主観の相違」と言う事を申しますね。そりゃ主観の相違だからと言う事を申しますでしょう。それは見方が違うからと云う訳なのです。ですからまあ仏教には仏教の一つの見方というのがあり。お道の信心にはお道の信心の、例えば教組のあられ方というものがある訳なのです。
昨日丁度夕方でした、あのう本当に私は有難いなあと思うんですけれども、昨日どちらが先だったでしょうか。高芝さん達が親子4人かお孫さんがおられる。丁度その時に久留米からあの、石井清さん達が夫婦で、そら大変な難儀な問題で、まあいよいよの時にはもう私共夫婦が出て来なければ解決しない、と言った様な問題で出て見えられたんですね。 問題といや難儀な事なんですけれども、そこへ丁度高芝さんがある事情で、ある事でまあそのう、お参りして見えておられた。
そしてその高芝さんがその清さんにですたい。もうこんこんとしてお前の所のね、そのう言わば何十年前の事。だからどうでも清お前達がこう云う様な信心にならせて頂いて、こうして行かなければ一心の矢立たんのぞと。もうそれをこんこんとまあ言わば、私が言えない所を言われるから、私有り難いと思うんですね。はあ神様がもう高芝さん今日は、あなたを使うてから、清さん達夫婦に色々と教えて下さるんだな。
またあなたが何時も言う様にです、こういう素晴らしいタイミングの中にです、ある事だからおかげと思わないけんよと言う事が、そのう清さん達夫婦も分かるらしいんですね。丁度高芝のおじを使うてから、「僕達のまあ右か左か迷うておる所をこうやっておかげを下さるんだ」と云う事が分かるんです。それでそこはそれでおかげを頂いたその後にです、でも僕は、その神様へ、何時ものお話なんですね。
神様のご意見番と言う様な事を言う。神様はこう言う様なその例えば、お気付けならお気付けやらを下さらなければ、おかげを下さると言った様ではなくてです。もう本当にもっともっと楽な信心でです。誰でもがおかげを頂けれるようなです。例えば一つのおかげを頂く為には、お気付け頂かなならんと。お試しを頂かねばならんとかと。そう云う様なややこしい信心ではなくてです。
天地の親神様なら人間をもっともっと楽に、おかげを下さる事の出来れる様な信心を、まあ打ち立てて行きたい。まあ、話を聞かせて頂きよりますと、まあ私は例えば昨日でしたかね、昨日の晩でした。昨日、一昨日の晩ですね。晩にここで私があの、私の信心のギリギリのものは、どう言う様な現在ところかと言うとですね。私の場合はあのどうでも良いと云う事です。
現在の私の信心のギリギリのものは。もうどの様な事でも、どの様な思いでも、言わばどの様に一心に、どうぞとお願いしておる事でもです、結果は、もうどうでも良いと云う事なんです。右になっても良ければ、左になっても良いと云う事。だから私のギリギリのものはそこなんだけれども、清さんが目指そうとしておられる所は、もういっちょ向こうの向こうにまだ、あるようですね。
だからそれは私とてもだから説明は出来ないけれども、私もひょっとするとそう云う風な所に、成るかもしれない。そう云う様な思い方になって来るかもしれない。現在のけれども私の場合は、いわゆるどうでも良いと。唯どうでも良いと云う事は、大変難しいですけれども、これは私なりに一生懸命の信心が、又は、修行がなされておらなければです、このどうでも良いという気持ちは生まれて来ないのです。そりゃぁあんたもう、鍋の中んどじょうでさえどげんかなるもんじゃから。ね。
どうとかなる癖にと言った様な、投げ槍的などうでも良いではなくてです。もう右だ左だとこちらで思わない。それでいて矢張り痒ければ、まあその痒い痛ければ痛いでお縋りしながらもです、それが例えば治ろうとか治らんとかと云う様な事はどうでも良いと云う事。もうこのどうでも良いと言う位に、まあ現在の私としてはです、素晴らしい境地は無いなと云う事で御座います。
ですからんな皆さんでも、清さんの言われる高度な、そのう一つの理想と言った様なものが私にも本当に分からない様にです、私のここのどうでも良いと言う気持ちがです、皆さんには、お分かりにならん方が大分あろうとこう思うんですよね。これはさておきましてですたいね。現在だから、私が頂いておるのはこう云う所だから、けれども結局は私共は教組の神様がお歩きになられた信心。
教組の神様が、打ち立てられたところの信心。教組の神様とてもです、矢張り天地の親神様に対してはです、始めから天地の、天地金乃神としてのお現れはなかったと云う事。どこ迄も生身を持っておる凡夫の事で御座いますから、どこにお粗末御無礼があるやら分かりません。私の様な者が、私の様な無学な百姓がと云う所に立っての、神様であったと云う事なんですね。
私共が完全無欠の人間であればです、それは清さんの言われる様な、高度な考え方も出来るかも知れませんですね。いやむしろ、神様にご意見を申し上げて、「そんな事であなたは、お気付けやらなさってはいかんですよ」と。「そんなお試しなんかしなさらん方が良いですよ」と言うて、ご意見番ん、ご意見が出来よるのでしょうけれども。それはお試しを受けなければ、お気付けを頂かなければ分からないのであり、一段一段進んで行く事が出来ないのである。
どう云う様な場合でもです無学の百姓であり、どこにお粗末御無礼があるやら分かりません。どうぞお向きを換えて下され、お向きを換えて下されと言うのが、天地の神様へ対する所の、教組の御態度であったと云う事なんです。「私はこれだけ信心しておるのに、どうしてこう云う事起こるですか」と言うのでなくてです。「どこにお粗末が御無礼があるやら分かりません」と云う事。
世の中では言わば金神様を悪心邪神の様に申しますけれども、知って向かえば命を取り、知らずに向こうても身を取るという程しの、あらたかな力を持って御座るあなた様であるからです。難儀な事も、無い命も助けて下さる事が出来るだろう。難儀でも作って与えて下さる事の出来れるあなたに違いはないのだから、どうぞお向きを換えて下され、で、お参りし抜かれ、平身低頭、実意丁寧神信心をもって、神様にお向かいなられる所にです、教組のご信心ぶりというものがある、私はあると思う。
そこに言わば天地金乃神としての、神愛溢れるばかりの神様としてのお現れになられたと云う事。それで私共の場合はです、例えば難儀そのものとてもです。神愛の現れであると云う様な頂き方が出来る所にです、どこを見てもどんなに考えて見ても有り難いんだなぁと云う事なんです。例えばお釈迦様の、まあ主観と云う事に成って参りますとですね。人間と言う者はです、もうそれこそ何億年という昔から様々な、まあそのうめぐりを創りです、難儀の元を創ってです。
そして様々な物に生まれ変わり、いわゆる入れ替わり立ち替わり。お前、前の性は、牛であったかも知れん、馬であったかも知れん、猫だったかも知れん、虫けらであったかも知れんのだと。そして生まれ変わって何億年の後に、今日人間として生まれ変わったのであるから、あの牛がお父さんかも知れんぞ、あの馬がですお前のお母さんの生まれ変わりかも知れんぞと言う様な、言わば主観なんです。そういう見方なのです。
ですから、あの何とか法師でしたかね、「ほろほろと、鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う」と。そう言う様な中からです、しみじみとしたいわゆる有り難いと言う物を言わば、感じておられる訳なんですね仏教の方達は。ほろろと鳴く山鳥の声聞をけば、父かとぞ思う。母かと方ぞ思うと。「あれが私の先祖の姿かもしれない」とこう思うんですよ。あれが亡くなられたお父さんの姿かもしれない。
お母さんの姿かもしれないと。そう言うんです。所が教祖はそう言う風には、感じておられないわけなんです。例えて言うならばです、「食物は人の命の為に、天地の神が作り与え給う物ぞ、何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れな」とこう仰った訳であって、例えば牛であろうが馬であろうがです。
ある意味あいにおいては、人間氏子の為の食物として、天地が作って下さっておるんだ。 だからお釈迦様と教粗の主観が、そんなに違う訳なんです。お釈迦様はその牛やら馬やらがひょっとすると自分の先祖かもしれない、と言う見方なのです。所が教祖の神様は、人間の命の為に作られておられるのだと、魚であろうが野菜であろうが。野菜だってやっぱ生があるのですよ。
生きておるのですよ。けれどもそれは、人間の命の為にだから、言わば頂く事によって、その生きておるその植物でも、言わばそのう動物でもです、人間に食される事によって、その物の助かりもあるんだと言う見方なのです。主観が違うでしょうが。今日その辺の所を一つ、金光教的な所からですね、あの分かって頂かにゃならんとこう思うんですけれどもね。ですからどうでも、教祖の神様の有られ方というのがです。
この身に付かなければいけないと云う事なんです。私昨日まあ十一時半、まあ十二時近かったでしょう。永瀬さん達が遅く、ある御用で見えられまして、それでご相手してから皆さん帰られた後にです、丁度長女とあのう妹の愛子とが起きとってくれましてから、一緒にもうそんなら御礼してから上がろうと。所がなんです。大変な事が起こったんですよ。もう私は本当にもう、お父さん節を昨日発揮したんですけれども、梯子上がって行こうと思ったらですね、もう本当に言うたこっちゃないばってんですね。
こげな大人が戦争、湾岸戦争の様な感じ、後からウソと思うならちょっとご覧下さい。ちゃんと生け捕りして。私は生れて初めてあんな大きなムカデを見ました。それがですね、私は足が悪いもんですからこうやって、テスリに掴まって行くでしょう。もう本当にそのテスリを掴まえたからよかったんですが、もうそれが大きい事大きい事ですね。だから、もうあれよあれよですけれども。
是はまたそのう私がその見る訳にはいかんもんですから、よし何かもう、ちょっと誰か信者さんが居られるならと思たけれども、居られる筈もないしです。結果私が退治したんです。そして私はもう、紙にもうこう包んでですね、まあ明日誰でん見せんならんとても私は生れて初めて、ああ言うねえ、言うならばです、あれが何々法師であったら恐らく、あれを殺しはしなかったでしょうね。
そのムカデは自分のお父さん、先祖かも知れんと思う様な見方したら、所が人間に害をするものであるからです、食物はみな人の命の為にあり、命を害する事の為にこういう害虫がおるとするならばです、これを取って薬にする他はないと私は思たんです。あのムカデっていうのは、非常にあの薬になるんですね、油かなんか付けて。だから希望者があるならお持ち帰り下さい。(笑)もうそりゃもう、皆さん見た事なかろうと言うぐらい大きなんですよ。もう私は驚いた。
そのムカデを私は退治したんですから、まあその長女と二人が、あのそれこそ言うんですよ。「もうお父さんを見直した」ち。(笑)大根の虫でも殺すな、ハエでも殺すなって言う私がですね、それはと言わずに、ちょっとその、生け捕りにしたんですから。けれどもそう云う事がですね、いわゆる見方が変わって来た、考え方が変わって来た。いわゆる教組のあられ方に段々なって来たから、出来るんです。
信心さして頂く者はです、これはキリスト教であろうが、仏教であろうがです、まあ私よく分かりませんけれども、結局は、有り難いという境地を開いて行く事だろうと思うんですけれども、その有り難いと言う気持ちを開いて行くと言う、意気振りが違うんだと云う事です。違うでしょうがもう全然。例えば片一方の方は、虫けら一つでも、殺生な事はしないと言う様なが仏教の生き方でしょうが。
と教祖の神なんか牛や馬でも人間命の為ならば。殺しても良いし食べても良いと仰るのだから、もう全然違う。それでいて言うなら私共、私共がです、教祖の道を神習わさせて頂いてから、段々分かって来る事はです。どう考えて見ても有り難い。どこを見ても有り難い。こういう有り難いものがどこから湧いて来るのか。それは、教祖の神様の神習われた所の道であり。
教粗の神様がお感じになったであろう様な精神状態をです、私共の心に頂いていこうとする努力から生まれて来るんだと云う事。そしてそれを結論致しますとです、私の様な者にと云う事になって来るんです。無学の百姓であり。人間生身の事で御座いますから、どこにお粗末が御無礼があるやら分りません。昨日私が、清さんにその事をお話しておる時にですね。あのお地蔵様がね、こう涎掛け、普通はこんな涎掛け当てられるでしょう。それあの丸いあの赤ちゃんが付けられる涎掛けの丸いのがあるでしょう。
あれをはめてられるところを頂きますもんね。お地蔵さんと言う事は、これはいうなら、一つの神格なんですよね。例えば、菩薩級とか地蔵級とかね。そのさまざまな仏教で言うなら、もう十何通りの人間の段階と言うのがあるんですよね。人間でもやっぱり菩薩にもなれる。地蔵にもなれる。と云う訳なんです。教粗の神様もそこをやっぱお通りになった訳なんですよね。
「下葉の氏子」とか「金子大明神」とか「金光大権現」とか「金光大神」とか。最高の「生神金光大神」と言う、お位に御神格がお進みなられた様にです、例えばんなら、教粗様、地蔵さんのお徳を頂いておられるかも知れません。けれども肝心なです、生身を持っておるので御座いますから、いわゆる涎を流す様な事があろうと云う事です。卑しい心があると云う事なんです。もうほんに誰の中でもごたるって言うでしょうが。
卑しい心の中の事を。ですからそれは本当の事を言うたら、清さんあんたがそう言うとるけれどもです。本当に生身の私共で御座いますから、凡夫の私共で御座いますからどこにお粗末やら御無礼があるか分かりません、と言う頂き方で行くおり他には無いよ。と言いたいんですけれども、そこは向こうに上がってしまってる。神様、神様にご意見でんしさなきゃならんと言う様な、考え方をしておる時ですから分かりませんですけれども、まあ機会があったらその事を私は又、伝えてやろうと思うんですけれどもね。
例えばんなら、菩薩級の様な神格を頂いておられる人でもです。弱みを持っておる人間としての、平身低頭な実意丁寧な姿と言う物が、心の状態がなからなければいけないと言う事が分かるでしょうが。お前の心の中に卑しい心はないかと、汚い心はないか、あるんです。ですから矢張りお気付けもなからなければならんのであり、お試しもなからなければ一段一段進んで行く事も出来ない、と言う様な状態であると言う事。
人間生身を持っております事で御座いますから、どこにお粗末御無礼があるやら分かりません。そういうお粗末御無礼な私共に対しましてもです、神様はこう云う様なおかげを下さっておると言う事が、どこを見てもどこを聞かせて頂いてもどう思うて見ても、有り難いと言うだけしか出て来ないと言う事。今朝の私の気持ちはそれでした。御神前で。どこをどう考えてみても有り難いなあと言う事なのです。
まあそれは、どっから出ておるかと言うと、お釈迦様的な考え方からではなくてです。矢張り、教祖の神様のお考え方の中からです、そう云う様な考え方でがあろうと思う、教祖の在り方の中からです、私の心の中に有り難いと言うものが湧いて来ておる。その有り難いと言う心が、土台となり、幹などになっておかげを頂いて行くんだと言う事。もう本当にそうなんです。昨日一昨日でした。あの今あちらでボーリングがあって、井戸が掘られております。20メートル掘らされておる。
所がどうとこう、その聞き違えたのかですね、あのう、不動産屋は、5メートルか4メートルかをまあ少し掘る様にと言う事だった。だから、あぁ20メートルであれば25メートル掘る様にと言うてあったんですね。ところがそれを40メートルと聞いたらしいんですよ。45メートルと聞いたらしいんですよね。ですからあと45メートルも掘っとるとですたい。だけんまあいっときしょったらお湯が出て来やせんじゃろかと言う事も言っとるとですたい。
してしかも掘っとる所はです、あのちょっとカルキがあると言う訳なんですね。ほんで、昨日でしたか一昨日でしたか、高芝さんが「あんただん御神意頂いてから掘ったですか」て言う訳なんです。勿論中心になっておりますのが、正義さんですから、とても御神意を伺わん筈はないですから、勿論御神意を頂いてからそこを掘らせて頂いておるんです。けれどもそういう、聞き違いがあったり間違いがあったり。
いわゆる、完全な物ではないと言う事。で、その事をお届けさして貰よりましたらですね。そのあのお供えのほら三段目の所に、真ん中に菊正宗がある。あの菊正宗を頂いて、向こうにあの万年亀と言うのがある。あの右の方へ、で左の方へあの角の井って言うですね、お酒のお供えが上がっておるでしょうが。あれを頂くんです。あの菊正宗は、これは正義さんの事でしょうね。
菊栄会の会長ですから、あのう正義さんというから正しいと、菊正と書いてあるから、もうねこれは正義さんがタッチしておる事だし。どういう万年亀と言う事はです、これは私の事でしょう。しかももう、このお水と言や、もう何時々までも使わなければならないものでもあるから、そういう神様のてんかいというのはある筈がないと言う事。角の井と言う事は井戸の井ですからね。きちっとしたおかげになるぞとこう、人間の考えた考えの違いをですね、あそこから下さったんですね。
ですから例えばそういうんなら考えて見ますとですよ。20メートルの場合六万円で済むんです。所が45メートル掘ると十何万になるんですよ。「そげな馬鹿な事があるものか」と言いたいとこですけれども、それとてもです、神様の深かぁいそれこそ御神意があっての事であるから、御礼申し上げる他にないと言う事。とに角です、どこを思うてみても考えてみてもです。御神意の中にあるのであり、神様のお働きの中にあるんだと分からして頂く時ですね、矢張り有り難いのです。
しかもその有り難いと言うのはです。生身を持っております人間の事であり。凡夫の私の事であり。無学の百姓であり。そういう私共にも関わりもせず、神様がこうお働き下さっておると言う事はです、有り難い、感じさせて頂くわけなのです。その有り難いと言う生活その物がです、言わば有り難いのであって、それが信心の頂かなければ分からないのであり、頂けるのである境地であると言う事。信心は矢張り結論致しますとです。それは生き方が違いましょう。お釈迦様の生き方もありましょう。
キリストの生き方もありましょうけれども、金光様のご信心をさして頂くならどうでもです、自分の思い方、有り方がです。主観がです。教組のお考え方の中に、なからなければいけないと言う事。どんなに個性がそれぞれに違っておっても、矢張り実意丁寧神信心でなかなければいけないと言う事なんです。そこから、本当のお道流儀で言う所の有り難しに触れて行かなければならんと思うんです。
おかげを頂きます様に。